アリスソフトのMIN-NARAKENが描く美少女絵は、なぜ色あせないのか? 『神のみ』若木民喜が訊く、『闘神都市』『鬼畜王ランス』を手がけた神絵師のこだわりとは

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 『神のみぞ知るセカイ』で知られる若木民喜氏が1990年代の美少女ゲーム業界を描いた単行本『16bitセンセーション 私とみんなが作った美少女ゲーム』巻末にて、アリスソフト所属のイラストレーター・MIN-NARAKEN氏へのインタビューが掲載されている。

 紙幅の都合上、残念ながら取材内容の5分の1程度しか掲載できていなかったのだが、今回電ファミニコゲーマーにてそのインタビュー内容の全文を掲載させていただくことになった。人気の全盛にあった1990年代の美少女ゲーム業界は、いったいどんな風景を見ていたのか?ぜひその貴重な証言をご覧いただきたい(編集部)。

『16bitセンセーション 私とみんなが作った美少女ゲーム』

TADAさんの目の前で絵を描いたらアリスソフト入社が決まった

──本日は『16bitセンセーション』の巻末インタビューということで、MIN-NARAKENさんにお話を伺っていこうと思います。今回は企画の関係上、1990年代の美少女ゲーム関連のお話も多くなると思いますが……。

MIN-NARAKEN氏(以下、MIN):
 大丈夫ですよ。いや、結構忘れていることもあるかと思いますので、そこは若木さんに突っ込んでもらって(笑)。

若木民喜(以下、若木):
 いえいえ(笑)。今日はよろしくお願いします。

MIN:
 よろしくお願いします。

──若木さんの突っ込みにも期待しています(笑)。さて、さっそくMIN-NARAKENさんにお伺いしたいのですが、アリスソフトに入ったのが1989年でしたよね?

MIN:
 確かに1989年からアリスソフトの仕事をしていたんですが、当時は社員ではなかったんです。絵の発注をいただいて、それを描いて持っていくという……アルバイトというか外注スタッフというやつですね。正式な入社は1994年か95年やったと思うんですけど。

(画像はアリスソフト 公式サイトより)

──ということは、5年くらいは外注スタッフとして働かれていたわけですね。

MIN:
 そうなんです。その間にアリスソフト以外の仕事をしたり漫画を描いたりと、いろいろやっていました。だからフリーでしたね。

──なるほど。では、そんなアリスソフトでお仕事をすることになった経緯をお聞かせいただけますか?

MIN:
 これは1989年──僕が大学(大阪芸術大学)に入学した年なんですけど、漫研に入りまして。そこの先輩にアリスソフトとかかわりを持っている人がいたんですね。それで漫研に入ったその日に部室で絵を描いていたら、それを見たその先輩が「キミは絵が描けるなあ。その絵を持ってここに行ってきなさい」と言われて、行った先がアリスソフトだったんですよ。

──え? それで絵を見せたら仕事が決まったわけですか?

MIN:
 そうですね。会社に行ったら、そこにTADAさんがいて、TADAさんの目の前で絵を描いたら「おー、描ける描ける。なら、女の子の絵、描いてくれへんかなあ」って言われて。そっからアリスソフトで絵を描き始めました。

若木:
 ちなみに当時のアリスソフトって、自社ビルだったんですか?

MIN:
 いえ、賃貸のビルに入っていました。ハニービルになったのは1995年ですね。

若木:
 その1990年代前半の取材記事が載っている雑誌があるんですが、スタッフがみんな若いじゃないですか。社内はどんな雰囲気だったんですか?

MIN:
 確かに若い会社で、みんな20歳そこそこでしたね。若木さんが『16bitセンセーション』で描いていたように、いすを並べて寝ている人とかもいたなあ(笑)。僕は絵を届けに行くくらいでしたけど、スタッフの椅子の間を縫うように歩いていましたよ。その合間にCG作業をしているパソコンを覗いて、「こんなふうなゲーム画面になるんだ」って思ったり。

──その時、18歳ですか? 美少女ゲームの歴史も30年以上になりますが、その年で原画家デビューした人は多くないと思いますよ(笑)。

MIN:
 そうですよね(笑)。僕も美少女ゲームの仕事をするつもりはなかったんです。大学に入ったし、なにかバイトせんといかんなあとは思っていたところだったので、先輩から絵を描ける仕事を紹介してもらえたのはよかったなあってくらいの気持ちだったんですよ。それがいきなり「美少女ゲームの絵を描け」ですからね。

──しかもエロゲーですよね。それはご存じだったんですか?

MIN:
 それがねえ、実は僕がパソコンゲームの知識をほとんど持っていなかったんですよ。高校でも漫画研究部だったんですけど、アニメ方面ばっかりだったですし、当時のパソコンなんて40万円くらいしましたしね。

──確かに一般家庭にパソコンが普通にある時代ではなかったですよね。

MIN:
 ウチにはオヤジのパソコンが1台あったんですが、僕は自由に使えないし、だからパソコンゲームがあるなんて知らないわけで、当然エロゲーの存在なんて、ねえ(笑)。

──じゃあ、まったく知らないでアリスソフトに行ったんですか?

MIN:
 一応先輩から聞いたんですよ。「アリスソフトという美少女ゲームの会社があって」「美少女ゲームってなんすか?」みたいな(笑)。そこで先輩からアリスソフトのゲームの絵を見せられて、「こんなエロいことを高い機械でやるのかあ」みたいなところから始まったんです。でも絵を描いてお金をもらえるわけですからね。「いいっすねえ」ってことで、すべてが始まったわけです。

──とはいえエロ絵ですよね。それを描く抵抗なんかはなかったんですか?

MIN:
 ありましたよ、そりゃ(笑)。もともと僕はバイクやメカの絵ばかり描いていて、女の子の絵を描くようになったのも高校2年生くらいからなんです。だからエロ絵なんか描いたこともないし、自分が描くとも思っていなかったわけです。だから最初は抵抗もありましたけど、背に腹は代えられないですよね(笑)。いい話をいただいたわけだから、チャレンジですよね。それにバイトだから、描けないとなれば向こうから切って来るだろう、まずはやってみることやなあと。

──それから30年というんだから、その先輩は慧眼でしたね。最初のお仕事は……。

MIN:
 『あぶないてんぐ伝説』(1989年)ですね。この原画を全部担当しました。

『あぶないてんぐ伝説』

若木:
 その時のギャラって、いくらくらいだったんですか?

MIN:
 それについては秘密です(笑)。

──そうですよね(笑)。その『あぶないてんぐ伝説』は12月発売だから、アルバイトを始めて数カ月で発売されています。それまで美少女ゲームを知らなかったということですが、仕事の前にプレイした作品はあるんですか?

MIN:
 これがですね、当時の記憶があいまいなんですけど、いきなり指定書を渡されて絵を描かされていたような気がします。だから自分の中で構える間もなくというか、何も考えられないうちに仕事をしていた感じですね。

──ちなみに当時は、どのような流れでお仕事をされていたのですか?

MIN:
 大学卒業までは外注だったので、ほかの仕事をやりながらアリスソフトの仕事も受けていたんですけど、「週に1回は会社に来てほしいかな」と言われていました。

──週1通勤ということでしょうか?

MIN:
 いえ、出来上がった原画を渡しに行くわけです。当時は電送手段がありませんからね。会社に行って資料をもらう。それを持ち帰って作画作業をして、週に1回くらいのペースで出来上がった絵を持っていく。そんな流れでしたね。

──当時の絵は手描きだったのですか?

MIN:
 そうです。ほかの原画家さんはパソコンで描かれていた方もいらっしゃったようですが、僕はもともとアナログ作画でしたから、アリスソフトの仕事も紙にシャープペンもしくはミリペンで描いていましたね。

──そうして描いた絵をファイルなどに挟んで持ち込む、ということですか?

MIN:
 そうですそうです。まさにアナログですよね(笑)。それの繰り返しでしたね。もう時効だから言いますけど、締め切り近くになると学業そっちのけで絵を描いていましたよ(笑)。

若木:
 MINさんは画集を見ても、初期から色指定をされていますし、当時から今と同じような絵を描かれていますよね。でも『あぶないてんぐ伝説』や『闘神都市』のCGはアニメ塗りです。当時、自分の絵がCGになったのを見て、どんな風に感じられていたんですか?

『闘神都市』

MIN:
 実はですね、自分の絵がCGになったのを最初に見たのは雑誌だったんです。『あぶないてんぐ伝説』で、ですけども。その時は「あ、こんなふうになるんだ。アニメみたいだなあ」って思いましたね。

若木:
 なんか、簡単な線になってしまった印象があったんじゃないですか?

MIN:
 いいところをついてきますね(笑)。僕は最初、色鉛筆で色指定でやっていました。これだと色指定がアニメ風なので、グラフィックもアニメ塗りになるんです。それが後に僕も色指定をコピックでやるようになるんです。コピックはブレンダーがあるので、アナログ塗りができるんですよね。それをグラフィックさんが考慮してくれるようになって、ゲームCGもアナログ塗りに近くなっていったという経緯があるんです。

若木:
 その切り替えっていつくらいからですか?

MIN:
 アリスソフトに入ってからですね。「こんなにいい画材があるんだ」って色指定に使うようになりました。実は当時アリスソフトには影指定のスタッフがいて、1998年くらいまでは僕の色指定と両方存在していましたね。

若木:
 『鬼畜王ランス』(1996年)の影指定はMINさんですよね。

MIN:
 これが実は両方なんです。実は画集に掲載されている僕の影指定は、厳密にいえば影指定さんに色をお伝えするための色指定なんですね。僕がコピックでつけた色指定を、影指定さんが色鉛筆で影指定に落とし込んで、それを元にグラフィックさんがCGにしていくという作業の流れでした。

──『鬼畜王ランス』が1996年発売ですから、まさにDOSと次世代OSの過渡期ですね。

MIN:
 そうですそうです。ただ、これは僕だけのやり方だったので、アリスソフトのほかの原画家さんも同じかどうかは分かりません。僕の場合は色のイメージがないと絵が描けないタイプなので、線画を描いたからには色を塗りたかったんです。

──『零式』(1997年)や『ママトト 〜a record of war〜』(1999年)の頃も同じですか?

MIN:
 そうです。ただ、原画家としての仕事が増えてくると、忙しくて時間が足りなくなってくるんですよ。それで影指定さんに直接線画をお渡ししたり、色を塗る時間がないから茶色のコピック一色で影指定を入れたりするようにもなりました。

一歩間違えれば運送会社へ就職していた

──ちょっとお話を戻させていただきますが、お仕事はご自宅でされていたんですか?

MIN:
 実は大阪芸術大学は大阪の南の奥にありまして、自宅からも通っていたんですけど、仕事が忙しくなると通学時間がもったいなくなるんですよね。それで大学近くに部屋を借りていました。なので、その両方で絵を描いていました。

──でも大学からアリスソフトの事務所までも距離がありますよね。

MIN:
 1時間はかかりました。だから会社に行くのは結構大変でしたね。

──そんな学生生活を送って、卒業後に晴れてアリスソフトに入社されたわけですか?

MIN:
 それがちょっと違うんですよ。卒業して2年間くらいはフリーとして活動していたんです。というのも、ありがたいことに学生時代にいろんなところで仕事をさせていただいて、漫画の連載も始まっていたんですね。それで卒業してすぐに就職するわけにはいかなかったんです。まあ僕も「仕事があるんだからええやん」って卒業即就職ということは考えてはなくて。なのでアリスソフトでも大学卒業から2~3年は、引き続き外注スタッフとして働いていました。

──当時のお仕事ぶりを振り返ると、そのままフリーでも活動できたと思います。なぜ就職を?

MIN:
 フリーって時間に融通が利くじゃないですか。だから親の生活リズムと合わなくなるんですね。腹に据えかねたのか「そんなことはやめて就職しろ」って言われまして。僕自身も「このまま絵で食っていけるわけないやん」って思っていたこともあって……。

──そうだったんですか?

MIN:
 だって今みたいにネットで自分をアピールしたりできる時代じゃないんですよ。その時はまだ仕事のつながりがあったからいいけど、新規開拓の仕方なんかわからない。だからちゃんと就職して、絵は趣味の一環としてやっていこうと思っていたんです。それで知り合いの伝手で運送会社へ就職するという話が、いい感じで進んでいたんですね。

──ええ!? それでどうなったんですか?

MIN:
 ちょうどその時に、アリスソフトさんから、新しい仕事の話が来たんですよ。それでTADAさんに「就職しなければいけなくなったので、これからアリスソフトさんの仕事も減っていくかと思います」と伝えたら「何を言っとるんだ。就職しなければいけないなら、ウチに来い」と(笑)。あ、そうなんすか?みたいな流れでアリスソフトに入ることになったんです。

──そこで相談して置いてくれて、ファンとしては助かった気持ちですよ(笑)。

MIN:
 今にして思えば相談してよかったですよ。せっかく声をかけていただけたわけだし、絵を描いていけるところまで行ってみたいと思いました。それで運送会社には断りを入れて、アリスソフトに入ったんです。

──こちらからすればTADAさんさまさまですね(笑)。そんなTADAさんは、当時どんな印象でしたか?

MIN:
 当時、僕が絵を渡していたのはYUKIMIさんだったので、開発本部長だったTADAさんとは、あまり話したことがなかったんですよ。だから当時の面白話といえば……あ、ひとつありますね。僕も大学卒業間際になると、やはりレポート提出の締め切りが山のように迫ってくるわけです。そんな時に『テクノポリス』さんから名指しでピンナップを描いてくれというオファーが来たんです。さすがにここは学業優先ということでお断りしようと相談したら「あ、そうですか。大変ですね。でも描いてください」って(笑)。こっちに断る権利はないのか!?って思いましたけど、『闘神都市』のクミコさんを、色指定込みで1枚描きました。でも、この時はちょっとキツかったですねえ。

若木:
 絵の担当だったYUKIMIさんというのは、当時数少ない、業界最初期の女性原画家という印象があるのですが、MINさんからみて、どのような方でしたか?

MIN:
 とてもやさしい人でしたよ。僕が締め切りを遅らせても叱られなかったし(笑)。非常に温厚で、もちろん厳しいことを言われることもありましたけど、とてもお世話になった方です。今でも感謝しています。

若木:
 教えてもらったことなんかはあったんですか?

MIN:
 アリスソフトの作画作業のシステムとか、ツールや画材についてもいろいろ教えていただきました。ただ、絵柄への指導については、「それは個性だから」的な流れで、ありませんでした。

──当時のお仕事の部分で印象深い出来事はありましたか?

MIN:
 これは『あぶないてんぐ伝説』の時なんですが、手描き原画というのは、原画を完成させた後に一度コピーを取り、そのコピーで色指定を作らなければいけないんですね。そのコピーを取りにコンビニまで行くんですけど、そうすると、原画をコピー機に忘れてくるんですよ(笑)。女の子がおっぱい出した絵なわけですけど、それを持った店員さんが「お客さん、忘れものです」って追っかけてくるわけで、やっぱり気まずいですよね。これ、2回か3回ありましたね。ほんと、気まずくて、コピー機を買いましたから(笑)。

──よく聞くエピソードとはいえ、やはり強烈ですね(笑)。

MIN:
 そうでしょう。まあ、コンビニまでそれなりに距離もあって、コピーのために行くのも面倒くさかったのもあるんですけどね。

──印象に残っている作品は何でしょう?

MIN:
 その頃だと、やっぱり『闘神都市』ですね。大きな作品でしたし、その後『闘神都市Ⅱ』も出ましたからね。やはり一番思い出深い作品です。

──『闘神都市Ⅱ』は1994年にDOS版が発売され、翌95年に次世代OS版が発売されました。いわば端境期にある作品なのですが、DOSと次世代OSで、絵の仕事に変化はありましたか?

『闘神都市Ⅱ』

MIN:
 僕はアナログで作画していましたので、それほど変化はありませんでしたね。もちろん会社のCGスタッフの仕事には変化があったと思いますが。

──ちなみにいつくらいまで手描きで原画を描かれていたんですか?

MIN:
 僕はつい最近まで手描きでしたよ。確か2014年くらいまでかな。ずいぶん長いこと手描きでしたよ。

若木:
 原画だけでなく、パッケージ絵も初期は手描きされていましたが、最近はCGになったじゃないですか。この切り替えはなぜだったんですか?

MIN:
 会社に入るまでは全部手描きで、ボードを買ってきて描いていました。だから会社に入ってからですね。会社にはそれぞれ分担もありますし、なにより手描きだと失敗すると全部描き直しですよね。そのプレッシャーに耐えられなくなったというのもあります(笑)。とはいえ『SeeIn青 -シーンAO-』(2000年)のパッケージは手描きでした。これは手描きの方が訴求力があると思ったからです。パッケージを完全にCGで描くようになったのは『シェル・クレイル 〜愛しあう逃避の中で〜』からだと思います。

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